推しを推すということ

偶然、何かのきっかけで知った、宇佐美りんさん著書「推し、燃ゆ」を読みました。


率直の感想としてはこういうの好きだなァ〜〜というのがまず第一でした。
推しに狂ってる女の子はとても可愛い。
そして言葉の選び方が好きであっという間に読み終えました。

主人公あかりは何かしらの診断がつくのだけれど、それだけではなく、10代特有の情緒不安定さと自己肯定感の低さが彼女が推しに依存していく要因にもなったのかなと感じる。彼女は推しを推すことだけがリアルだった。
自分の高校生時代を思い出して、ちょっとだけ心が重たくなった。
学校も家族も何もうまくいかなくて、いつも闇のなかを歩いている気がして、そこに推しが闇夜を照らす月になってくれた。
近づくとこはなくとも離れることもなく隣を歩き照らし続けてくれていた。
推しと付き合いたいとかそういう感情が完全に無かったかと言われるとそれは断言はできないのだけど、それ以上に推しが見ている世界が見たくて推しの脳内、胸のうちに触れたかったんですよね、あかりと同じように。
できることなら同化したいとさえ思っていた。
ある日、推しがTwitterを始めて私生活に近しいものを更新するようになった時にすごく動揺したというか、とても勝手な話なのだけれど、神格化していたから垣間見える私生活は推しを「人」にしてしまっていてショックを受けた。
だから、あかりの気持ちが痛いほど分かった。

最後の解散ライブ、アイドルとしての真幸は死んだ。
もう解釈し続けた真幸には二度と会えることはないのである。苦しくて、切なくて、悲しい。
例えば仮にまた同じように表舞台に立ったとしても、自分の状況も推しのスタンスも違うかもしれない。何かしらの違和感を覚える可能性もある。あの時の感情はその時だけのもので似たような感情を覚えることはあっても全く一緒にはならない。
推しなのに、すべてを捧げることができるほど夢中になれない自分に嫌気が差すことだってある。
それを思うと、こちらは推すことしかできないのに覚悟を持って表舞台に立ってくれよ、という気持ちになる。
愛情も憎しみも紙一重なのだろう。


今はもうあの若さゆえの情緒不安定さは無くなって、嫌なことがあってもそれなりに自分のなかで処理できるくらいには大人になって、誰かを支えに縋って生きるほどかよわい少女ではなくなった。
三次元に推しができてもそこまですべてを捧げられる程の熱意をきっと持てはしないのだけれど、それでもあの感情を思い出せるし苦しかったことばかりだったけれど、救われてきたこともいっぱいあって、推しが笑ってくれていたら嬉しかった気持ちは、ずっと心の奥深く誰にも触られない場所に大切に閉まっておきたい、閉じ込めておきたいといまでも思っている。


賛否が分かれる本ではありますが、私は作中に出てくるSNSを含め、とてもリアリティを感じられる一冊でなにかに熱狂的な女の子はやはり可愛くて好きだと思えた作品でした。

個人的には、どうして真幸はファンを殴ったのかその経緯を知りたかったのだけど、あくまであかりちゃんの視点で話が展開されていくので推しである真幸が話さなければ、こちらは知る術はない。SNSなどで憶測として議論が交わされるだけである。この殴った経緯が最後まで分からないところもまた真幸の性格を表しているのと同時に推しとオタクの関係性を表しているように思います。


次は朝井リョウさんの武道館を読みたい。